福岡GKスクール立ち上げ秘話!壮絶な20年間!!

福岡ゴールキーパースクールは2000年6月に開校しました。

今では150名以上となり、すごく敷居の高いスクールと言われたりします。

 

敷居が高い・・・全くそんなことはありません。

 

今でも、ゴールキーパーが大好きで、うまくなりたいと思っている選手なら、誰でも歓迎しています。

入会者のほとんどはゴールキーパー初心者なんです。

そんな子供たちが、うまくなってシュート止めて、嬉しそうな顔を見ると、なんか爽快って言葉があっているのでしょうか?

 

だって、ゴールキーパーという一つのポジションでこんなに熱くなれるんです。

開校した20年前と何も気持ちは変わっていません。

僕はどんなゴールキーパーにでも…

 

私はゴールキーパーの本当の楽しさを伝えていきます。全てのゴールキーパーにこれからも。

 

開校したのは2000年6月

2000年6月、開校したと言っても、自分ともうひとりのスタッフ、そして選手は3名と、その時の状況は今でも思い出します。

グラウンドも安定せず、選手の確保すらままならない。

 

自分が何をしたいのかすら、わからなくなるほどでした。

 

私は東福岡高校で全国高校サッカー選手権に出場して卒業後、東海地域の中京大学に入学しました。

でも、私にはしたいことがありました。

 

高校時代に、自分が単発で唯一GKコーチから指導を受けることができました。

アトランタオリンピックでGKコーチをしていた「マリオ」GKコーチです。

2日間と、短い時間ではありましたが、非常に中身の濃いものでした。

絶対に右足でしかボールを蹴らず、キックをミスをすることなく、確実に狙ったコースへボールを配球・・・。

的確に、コースへのステッピングやダイビング方法など、

 

そのとき、教えてもらうことがほとんどない、「ゴールキーパー」の指導に興味を持つことができたのです。

 

大学を決定するために、大学の練習に参加しました。

そのとき、当時中京大学3年生のものすごいゴールキーパーと出会いました。

 

元日本代表の山岸範宏氏との出会い

ギラヴァンツ北九州に所属する、元日本代表の山岸範宏氏です。

自分が自信を持っていたゴールキーパー像は全て崩れました。

 

キャッチングのパワフルさ

ダイナミックなダイビング

迫力のあるリーダーシップとメンタリティ

 

全てにおいて素晴らしかった。

 

キャッチングなんて、なんといっていいかわからないくらいすごかった。

手が大きいというのもあるのですが、

 

ガチっ!!!!

 

て、ボールをつかんでるっていうのでしょうか?

僕はこれが本当のキャッチだって思ったっというか感じたんです。

 

こんなゴールキーパーになりたい・・・ではなく、指導者に興味を持っていた自分は考え方が180度変わりました。

 

山岸さんのような、こんな素晴らしいゴールキーパーを育てることができないか・・・?

 

そうなったとき、大学には入学したものの、指導者へ早く転身することばかり考えていた自分は、すぐに大学を中退し、福岡へ戻りました。

そりゃ、志波先生には大概怒られました(笑)

でも、なんか想いって伝わるんですね。

 

始まった指導者の道

福岡に戻り、中学の恩師の勤める中学校で外部指導を始めました。

しかし、自分はゴールキーパーの専門知識もなく、その頃日本サッカー協会で「GKプロジェクト」が発足されて間もない時期でした。

徐々に出てくるGK情報をGETし、少しずつ自分に知識をつけていったのを今でも鮮明に覚えています。

それは、マリオGKコーチから教わった時のような、のめり込むっていうんですかね?

そういったことを1日中考えていました(笑)

 

右も左も分からない19歳の指導者

その後、縁があり東福岡高校GKコーチとなりました。

その時、当時鹿島アントラーズでスカウトをされていた平野さんにお願いして、トレーニング参加をさせていただきました。

グラウンドに立って、とりあえず見ているだけでした。

所詮19歳、右も左もわからない若者が見に来ているという状況。

 

でも、ここでセパレートトレーニングの原点を見ました。

それだけは今でも覚えています。

 

ブラジル人のイッカGKコーチでした。

今だからわかるトレーニングプランの構築、選手の動作をうまく連動させながらのシュートなどなど。

 

当時は何もわからない19歳のわがままを快く引き受けてくださった平野さん、そしてお世話してくださった現・サンフレッチェ広島GKコーチの藤原さんには感謝しかありません。

プロフェッショナルで働く鹿島アントラーズの方を見て、少しずつプロフェッショナルで活動して行くことを決断していきました。

 

福岡ゴールキーパースクールの立ち上げ

そして、自分のチームだけでなく、日本のゴールキーパー、福岡県のゴールキーパーを良くしたい!という想いから「福岡ゴールキーパースクール」の立ち上げを考えました。

ただ、最初にも述べた通り、やり始めたものの、3人しか集まらずに試行錯誤の日々でした。

 

ゴールキーパースクールを立ち上げたきっかけ、それは今のゴールキーパーでも同じような悩みと思いますが

自分がゴールキーパーを教えられたことがありませんでした。だから・・・です。

 

そのときに、たった2日間でしたが、マリオGKコーチの専門GKトレーニングを受けたことによって、学ぶべきところが多くあったからです。

それを、今後のゴールキーパーへ伝えていきたいという想いでスタートをしました。

 

いろんな方々へお話をさせていただくと、どのチームの現場でもゴールキーパーは隅っこで自分たちでやっている、いわば「放置」状態。

この課題については未だに起こっている日本全体の問題ではないでしょうか。

 

だから、週1回GKを集めてのGK講習会、いわゆる「GKスクール」をやろうと決心したのです。

 

ポジティブな声かけに元気をもらう!

僕は走り回りました。

まずは中学校の先生方にお会いして資料などを配らせてもらいました。

 

「キーパー困ってたんだよ!」

「選手に話をしておくね!」

 

など、ポジティブな声をいっぱいかけてもらいました。

今でもこういった言葉は思い出しますね。

 

少しずつ選手が増えてきた頃、使っていた会場が使えなくなりました。

東福岡高校を借りたり、外部指導員をさせてもらっている中学校の体育館を使わせてもらったりしました。

外部指導員をさせてもらっていた学校はナイター施設がなく、夜は活動できなかったためです。

 

そして、1ヶ月の休止を余儀なくされました。

その間に様々なところにお話をさせてもらって、あるクラブの活動場所の横を使わせてもらうことに。

 

とにかくゴールキーパーに投資

そこではゴールは1台しかなく選手がゴールを使う環境にありませんでした。

そこで思ったことは、まずは選手の環境面の改善です。

公式戦のように、できる限り新品のボールを使用したり、ゴールがない会場だったら、組み立て式ゴールを持っていったり、バー・コーン、リバウンドネットなどのトレーニングの備品も買い揃えました。

 

月謝は設備に投資をどんどんしていきました。

そうするとトレーニングの幅も拡がり、選手へ提供できるトレーニングも増加したことを覚えています。

 

安定したグラウンドを求めて!

そして、2年目が終わる頃、また同じことが起こりました。

そのクラブの都合のため、グラウンド使用ができなくなるとの連絡が来ました。

 

安定的にグラウンド確保をすることがどれほど大変かを、本当に痛感させられました。

 

そこでまた色々と助けていただいて、自分の地元の中学校のナイターを使用させていただくことになりました。

 

今までより遠くなるけど・・・

少しグラウンドは狭いけど・・・

 

ゴールもあるし、すごくよかった。

 

選手にも文章にて説明しました。

会場変わりますって。

 

そしたら、みんなやっぱりゴールキーパーが大好きなのかな?

福岡ゴールキーパースクールが大好きなのかな?

 

一人も辞めずに通ってくれました。

 

選手を優先した行動を!

グラウンドが安定したところで、設備なども充実して来ました。

移動式の人工芝を買ったり、少年用のゴールを買ったり、ボールを常に新しくしたり・・・

 

とにかく選手を優先した行動を取りました。

だって、僕は選手がいるからこそ、仕事が成り立っているんですから。

 

2校目は佐賀県小城市

4年経った時、僕は佐賀県小城市でGKスクールをスタートしました。

開校のときには佐賀大学の坂元先生にご協力をいただきました。

 

まさかのスタートですが、開校日にナイターがショートし、横の草むらで街灯を頼りにトレーニングしたのを覚えています(笑)

 

そして、雨の日にレクチャーをやろうといつも使ってる公民館に移動した時、たまたま町長選挙の関係で、公民館が使用不可でした。

無理やりお願いをして、なんとか調理室でやらせてもらったりもしましたね(笑)

そんな思い出のある小城校ですが、ちょうどそのときに僕は23歳でした。

 

もっと選手に良い想いをさせたい。

そのためには自分がもう一つ上のレベルに行くべきだと考えていた頃です。

 

それと同時にこれから自分はどうしていくんだろう…

そういった今後の自分への不安などが入り混じっていました。

 

あるクラブからのオファー

そんなとき、あるクラブからオファーをいただきます。

現在J1のサガン鳥栖。

私は24歳の時に、育成組織のGKコーチ、そしてトップチームのアシスタントとして入団しました。

入団と同時に小城校はサガン鳥栖GKスクールとして再スタートをしました。

 

鳥栖に拠点を移し、毎週オフの月曜日に福岡へ移動する日々を送っていました。

鳥栖ではトップチームのアシスタント、 ユース、ジュニアユース、ジュニア、そしてGKスクール。

 

なかなかハードワークだったなって今では思います。

ですが、すべてが楽しかった。

 

このころから、もっとこの経験を福岡県のGKに還元したいと思っていました。

 

福岡県のGKに還元するために

そこでスタートしたのが、当時の春日校(現在の筑紫野校)、そして北九州校です。

春日校の立ち上げ秘話は、当時スタッフだった池内が地元のゴールキーパーを盛り上げたい!とい思いから、スタートした講習会を引き継いだ形でスタートしました。

 

春日校では初めて月2回形式のスクールです。

春日校ではエリア的にも久留米や飯塚など、月2回ということで遠方からの参加も多かったですね。

 

一方、北九州校ではプレスクールを行い、最初は18名からスタートしたのを覚えています。

 

実は北九州校、僕が思い立って夜中に北九州に行ったんです。

グラウンドを探してて、ある程度見込みを立てていました。

スタッフが当時北九州にいたので、夜中に電話して呼び出しました。

 

「ここで北九州をやろうと思うんだけど、一緒にやらないか?」

 

「はい、やります!」

 

その彼は、現在FC東京で育成のGKコーチをしている来コーチです。

子供のために、その頃からそういった情熱を常に持って行動をしていたんでしょうね。

 

最初は北九州のプレスクールを行い、18名の選手が来てくれました。

正直、不安はありましたが、すごく嬉しかった。

 

実際に北九州から福岡市まで通ってくれている選手がすでに3名ほどいました。

ニーズを感じていただけに、これだけの選手が集まってくれるなんて思っていませんでした。

 

春日校はその後、グラウンドに悩まされました。

あるクラブが1日の申請前にグラウンドを押さえているんです。

すごく不公平でした。でも大人の世界で動かしようのない事実でした。

 

なかなか安定したグラウンドを確保できなかったため、今の筑紫野校でお世話になっているニューバランスフットサルプレイス福岡に会場を変更し、筑紫野校となりました。

私たちの活動に理解していただき、快くグラウンドを確保していただき、感謝しかありません。

素晴らしいことに、それを機に筑紫野校は人工芝となりました。

 

1つでいい。選手に一つだけ持ち帰ってもらおう!

月2回は、来やすいとのあるので、いろんな地域から通ってくれています。

しかしながら、月2回という回数もあり、選手を変えるために試行錯誤を今でも繰り返しています。

月2回という形式がスタートしてから、スタッフ陣の中で、こういった考えが生まれたんです。

 

「一つでいい。選手に一つだけ持ち帰ってもらおう。」

 

一つだけ絶対に持ち帰ってもらうことで、確実に選手に一つだけ伸ばすポイントを伝えるようになったんです。

いろんなことを伝えるのもいいのですが、選手が消化しきれないんです。

だからこそ、一つだけ持ち帰ってもらう・・・。

 

シンプルで選手にとっては次までに意識をしやすくなります。

そうすることで、選手はより動き出しや技術がスムーズにできるようになってきました。

 

苦しい時期を乗り越えて

その頃、北九州校は最初は人数を確保できたものの、徐々に人数が減ってきました。

チーム事情だったり、家庭の事情だったりと非常に厳しい状況でした。

トレーニングが5名になったりもしましたね。

本当に苦しかった。

 

人数を増やしたくて、GKクリニックを行ったりもしましたが、参加者が0人とかの時もありました。

なんか悔しかったですね。

だって、ゴールキーパーの専門トレーニングを受ける機会を作っても来てくれない・・・

 

そういった状況もありましたが、コツコツやり始めました。

GKクリニックを小学生中心に変更し、ジュニア強化に動きました。

そうすると、ある若松区のチームの監督さんが・・・

 

「あそこ(福岡GKスクール)に行ったGKは必ず上手くなる。ぜひ行きなさい。」

そう言われて来た体験の選手がいたんです。

 

スタッフで帰りの車で大喜びしたのは今でも忘れません。

 

少しずつ僕らの活動に理解を示してくれる人がいる。

だったら、そういった方々をどんどん増やそう!

 

そういった気持ちで活動していきました。

今ではすごく熱い気持ちを持った40名以上の選手が通ってくれています。

 

立ち上げに苦労した久留米校

少し時が経ち、久留米校立ち上げに動きました。

実は一度講習会を行い、感触自体はありました。

ですが、立ち上げに約2年かかりました。

 

問題はここでもグラウンドでした。

立ち上げに協力いただいた方のご紹介で、ある小学校のナイター施設を交渉していました。

 

公民館もOK。学校側もOK。

最後は地域住民の許可でした。

 

しかし、答えはNO。

理由はよそ者だから。

確かにそうです。よそ者です。

 

ですが、ゴールキーパーによそ者なんてない。

ご理解いただけなかったのは今でも残念でなりません。

 

その後、様々なグラウンドを見て回っては交渉をしましたが、なかなかグラウンドがないエリアということもあり、うまくいきませんでした。

 

その時、自衛隊のグラウンドを貸していただけるようになったのです。

プレスクール、そして開校と進み、18名の選手に来ていただけました。

 

天然芝、すごく広くてトレーニングには最適でした。

 

そして約1年が過ぎた時、東日本大震災が起きました。

電力について話が大きく出始めました。

 

その年の10月、私はグラウンド担当者に呼ばれて、部屋のソファーに座りました。

 

「申し訳ありませんが、国の方針で来年1月よりナイター施設を外部にお貸しすることができなくなりました。」

「そうですよね…。」

 

やっぱりきたかって…

そんな感じでしたね。

 

話の交渉の中で、グラウンド自体を貸すことは可能で、電力を使うナイターがダメとのお話。

私はすぐに動きました。

 

大阪のある会社さんにお邪魔し、バッテリー式のライトを視察し、購入しました。

正直、すごくびっくりする金額でした(笑)

 

でも、月謝の値上げを言うことはありませんでした。

なぜかというと、それはこちらの都合なので、選手には良い環境を与え続けたいと考えたからです。

 

毎回倉庫からライトを運び、現地でライトを設置。

終わったら協力してライトを撤収し、倉庫に戻ってライトを運び出す・・・

 

水曜日はいつも夜中の0時を回って作業をしていました。

 

その後、ご縁があって今のフットサルコートに移動させてもらって、良い環境でトレーニングをすることができています。

明るくて、人工芝で・・・

 

フットサルコート事務所前で、保護者の方が子供の様子を見ながら和気あいあいとしゃべっている姿を見ると、なんかホッとするんですよね。

 

あの時は、とにかくグラウンドにライトを設置するのも一苦労。

「雨が降ったらどうしよう」

「風が強かったら、杭を打たなきゃ」

当時は不安だらけだったんだなって思います。

 

今でも変わらない福岡ゴールキーパースクールの想い

20年前に始まった福岡ゴールキーパースクールは、今でも想いは何も変わることはありません。

全てはゴールキーパーのために活動をするのみなんです。

 

親御さんの手を借りず、自分で自転車を漕いで通ってくれる選手。

バスなどを乗り継いでくる選手。

 

反抗期で親御さんと話せる時間は唯一スクールに来る車の中だったり・・・

 

実はキーパースクールのことを選手の中では「キースク」と呼んでいたのを知った時、なんか嬉しかった(笑)

 

多分、各ご家庭でいろんなドラマが詰まっているんじゃないでしょうか?

そんないっぱいの思い出はもう21年目に突入します。

 

今後も色々と変わっていく予定です。

もちろん、それは進化していくために。

 

ですが、本質は何も変わりません。

月謝以上のことを持ち帰ってもらうために、私は日々努力以外ありません。

全てのゴールキーパーのために、私はゴールキーパーのことを伝えていくだけです。

ぜひ福岡のゴールキーパーは、福岡ゴールキーパースクールに足を運んでください。

必ず、私たちが変えてみせます。